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明けましておめでとう! 新年快乐!今年もよろしくね こちらこそ! この間、雪祭り、行ってきたんだ 札幌の? そう。三好さんたちと行ったんだけど、超きれいだった! いいなぁ でも、寒かった~長春ほどじゃないけど スキー、トライした? うん。でも、滑るそばから大転倒! 3分で雪まみれだよ 見たかったなあ 私も1月にハルピンに行ったじゃない 冻死了! だから、ハルピンは寒いよって言ったじゃない でも、人気のスポットだし、ほんとにきれいで、もう感激! そうなんだ あれ?やっぱり行ったことあるんじゃない さすが、長春出身! え?ないよ。 ほとんど地元なのに? うん そうそう、鈴木さんが氷のパンダに激突した! パンダ、かわいそう… 私もハデに転んじゃって。それなのに美咲ときたら、心配するのは鈴木さんのことばっかり えっ、そうなの 最近ね、あの二人、すっごく仲良しなのよ へえ ご両親から春節のカードをいただいたよ 高橋さんのも来たよ すごくセンスよくて感動! でしょ そうだ、空手部の合宿、どこになった? 沖縄! 沖縄? 那覇国際大と練習試合もするんだ。マイクなんか毎日猛練習してるよ 王さんも試合に出るの? さあ、どうでしょう… あ、ポップカルチャーの専門家に、沖縄は最高かも なんで? 行けば分かるよ! 教えて~ 沖縄って夜にはよく誰かの家に集まって、歌ったり踊ったりするんだって おもしろうそう!若い人も? そう! こういう習慣から沖縄のポップカルチャーが生まれたんじゃないかなあ あ、向こうの学生と、コンパ、することになってた! チャーンス! なんか、すっごく楽しみになってきた パフォーマンス、両方とも頑張ってね 両方? そう、試合も、歌や踊りも 無理だよ 秧歌じゃないんだから あ、もう行かなくちゃ。ごめん、またね! うん、バイバイ!! クレジットカードは本当に必要か (会社員 23歳) クレジットカードは、今や私たちの生活にすっかり定着しています。一人で5枚も6枚もカードを持っている人も珍しくないようです。カードがあれば、現金を持ち歩かなくても、必要な時に必要な物を簡単に購入することができます。また、デパートなどのクレジットカードでは、購入の額に応じてたまるポイントで商品券がもらえたり、割引料金で買い物ができたりするというメリットもあります。しかし、便利である反面、それほど必要のない物や高額な物を値段を意識しないで買ってしまうということが起こりがちです。 実は、私は、家族や同僚からは時代遅れと言われていますが、カードを持たない、つまり現金主義者なのです。カードを使うと借金をして買ったような気になり、支払いが済むまではなんだか落ち着かない気になるのです。現に多くなりすぎたカードの支払いのために、サラ金などの金融業から借金をし、さらにその借金のために犯罪に走る人もあることが報道されています。カードをめぐるトラブルは今後も絶えないでしょう。 クレジットカードが使えなくなるとしたら、不便を感じる人は多いでしょう。しかし、カード利用者は、借金をしていることだという自覚を持ちつつ、カードを利用すべきではないかと思います。 教室でもっと発言を (大学生 19歳)  大学に入って、1年が経った。今日も教室は後ろの方から埋まっていく。この1年を振り返ってみると、いつもそうだった。それには二つの大きな理由があるのではないだろうか。  まず、大学の教師が、学生に発言を求めることがあまりにも少ないということである。そして、学生の方も、教師に指名されるのを恐れているのか、目立たない場所にいたいという気持ちがあるのか、いつも後ろの方の席にかたまりがちであることだ。 私は、父の仕事の関係で、高校の2年間を海外で過ごした。そこでは一クラスの生徒数は少なく、授業はあくまで生徒中心だった。私たち生徒は、常に授業に真剣に取り組まねばならず、教室では自分の考えや意見をためらわずに述べていた。 ところが、日本の高校では教師が一人で授業を進めている。例えば、英語の授業では教師が教科書を読み、日本語に訳して重要な表現を説明するだけで終わってしまう。英語の授業なのに、生徒は一言も英語を話すことがない。さすがに大学ではこんな授業は見られないかと思ったら、信じがたいに大学も高校の延長にすぎなかった。 授業中、寝ている人や授業とは関係のない本を広げている人がいても、周りの人に迷惑になるような声で話していない限り、注意されることもない。  たしかに、日本の学校は一クラスの人数が多いので、皆が積極的に自分の意見を述べることは難しいだろう。しかし、そういう状況の中でも、自分の意見を持ち、それを発表する勇気が必要ではないだろうか。自分という独立した人間が、自分だけの意見を持つことで、社会の中での自分の存在を再確認できるはずだ。自分という存在を自覚するためにも、少し勇気を出して、積極的に発言していこうではないか。 ここが日本の最南端、沖縄かあ。あったかいなあ! 海の青さといい、空気といい、同じ日本とは思えないなあ。 あ、比嘉先生!お久しぶりです。 やあ、小川君。皆さん、めんそーれ! 今年もよろしくお願いします。那覇国際さんは、去年にも増してますます強くなったと聞いてますよ。 いやいや、東西さんこそ。強い1年生が入ったそうじゃありませんか。うちの大学はこのところ負けっぱなしでね。今度の試合はお手柔らかにお願いしますよ。 じゃあ、まず腹ごしらえにこの近くの市場にご案内します。1階で好きな食材を買ったら2階で料理してくれますから、向こうに着いたら各自食材を選んでください。 おす! お兄さん、何がいい? んー、魚、食べたいんですけど、よく分からなくて… それなら、いろんな種類をちょっとずつ選んだらどう?これとこれと…。あ、そうだ。それから、あと、このイラブーも。 えっ、こ、これ、食べられるんですか。 もちろん!これ、海蛇ね。イラブー汁にするとおいしいんだよ。 海蛇?!いやあ、いいっす…。 じゃあ、これは?ハリセンボン。こうなる前の姿がこれね。 ぎゃああ! お客さんたち、どちらから?よかったら、これ、味見してってよ。それから、ゴーヤーチャンプルーの作り方教えてあげるから、こっちいらっしゃい。 わーい、ゴーヤーチャンプルーだあ! はい、材料は、ゴーヤー、卵、鰹節、島豆腐、ポーク缶詰、それと調味料。 ゴーヤーって、「苦瓜」とも言いますよね。中国では発音は違いますけど、同じ漢字を使うんですよ。 へえ。 それに、島豆腐って中国の豆腐に似てますねえ。きっと両方とも中国から伝わったんだろうな。 ああ、そうかもね。じゃあ、炒める前に下ごしらえね。ゴーヤーは縦二つに切って、中の種を取ったら、薄切りにする。 そして、島豆腐は手で大きくちぎっておく。ポークは厚さ5ミリぐらいに切って、と。 うん!これ、懐かしい味! こらこら!卵は器に割ってよく混ぜておく。はい、下ごしらえは終わり!さあ、ここからは自分たちでやってみる? はい! まず、熱したフライパンに豆腐を入れて、よく火を通して… はい。最初に豆腐を炒めるんですね。 で、豆腐に火が通ったら、それを皿に取り出しておいて、それから、フライパンをそのまま強火にかけて、ポークを入れて、炒める。 豆腐を炒めたあとはポーク、と。 はい。それから、ゴーヤーを入れて、よく炒まったら軽く塩を振って、味付けね。 砂糖は入れないんですか。 そう。やまとの料理には何でも砂糖を入れちゃうんでしょ。砂糖が入っていないのが沖縄料理の特徴なんだよ。 へえ、それも中華料理とちょっと似てますね。中華料理と日本料理が混じったのが沖縄料理なのかなあ。 それとアメリカ料理もね! 最後に鰹節と卵を入れて混ぜて、火が通ったらできあがり。 わあ!あいしそう!冷めないうちに食べよう! お待ちどおさま!あれ、大山さんは? さっき青い顔して戻ってきて、先にホテルに行ってるって。 えっ、そうですか。どうしたのかなあ… 結婚して二年目くらいのことだったと思うけれど、僕は半年くらい「主夫=ハウスハズバンド」をやっていたことがある。そのときはなんということもなくごく普通に毎日を送っていたのだが、今になってみるとあの半年は僕の人生の最良の一ページ出会ったような気がする。 もっともその当時はとくに「主夫」をやろうと志していたわけではなく、たまたまちょっとしためぐりあわせて、女房が仕事に出て僕が家に残ることになったのだ。もうかれこれ十二、三年前、ジョン・レノンが「主夫」をやって話題になる以前の話である。 「主夫」の日常は「主婦」の日常と同じくらい平穏である。まず朝七時に起きて食事を作り、女房を仕事に送りだし、かたづけものをする。流しの中にある食器はすぐに洗ってしまうというのが家事の鉄則のひとつである。それから普通なら新聞を読むか、TVを観るか、ラジオをつけるかというところだが、僕はそういうことはやらない。何故ならその当時我々は無形文化財的に貧乏で、ラジオもTVも買えず、新聞をとる金さえなかったからだ。だから家の中には何もない。金がないと生活というのはおどろくくらいどシンプルになる。世の中には「シンプル・ライフ」というブランドの洋服があるが「シンプル・ライフ」のことなら僕の方がずっと詳しい。 朝食のかたづけが済むと洗濯をする。とはいっても洗濯機がないから、風呂場でぐしゃぐしゃと足と踏んで洗っちゃうわけである。これは時間はかかるけれど、なかなか良い運動になる。そして干す。 洗濯が終わると食事の買い物に行く。買い物とはいっても冷蔵庫がないから(それにしても貧乏だなあ)余分なものは買えない。その日使うものだけを余りの出ないように買うわけだ。だからその日の夕食が大根の味噌汁と大根の煮物としらすおろしなんていう状況もかなりの頻度で現出し得るわけである。こういうのを「シンプル・ライフ」と呼ばずしていったい何と呼べばいいのだろう? 買い物のついでに「国分寺書店」に寄って本を売ったり、安い古本を買ったりした。それから家にかえって簡単に昼食をとり、アイロンをかけ、ざっと掃除をし(僕は掃除が苦手なのであまり丁寧にをやらない)、夕方まで縁側に座って猫と遊んだり本を読んだりしてのんびりと過ごす。なにしろ暇なものだから、僕はこの時期だけで、「講談社・少年少女世界名作全集」を読破したし、『細雪』なんて三回も読んだ。 あたりが暗くなってくるとそろそろ夕食の仕度である。米を洗って炊き、味噌汁を作り、煮物を作り、魚を焼く用意をして女房が仕事から帰ってくるのを待つ。帰ってくるのはだいたい7時前だが、時々残業なんかで遅くなることもある。でも――今さらことわるまでもないだろうが――家には電話がないので、連絡はつかない。だから僕は魚を網の上にのせたまま、女房の帰りを、「……」という感じでじっと待っているわけである。 この、「……」というのはたぶん日常的に経験したことのない方には分からないだろうけど、かなり微妙な種類の感興である。「今日遅くなりそうだから先に食っちゃおうかな」とも思うのだが、「まあせっかくだからもう少し待ってみようか」とも思うし、「でも腹減ったね」とも思う。こういういろんな思いが集約されて、「……」という沈黙になるのである。だから、「あ、ごめん、食べてきちゃった」なんて言われるとやはり頭に来る。 それからこれは奇妙といえば奇妙だし、奇妙じゃないといえばそれほど奇妙ではないのかもしれないけど、自分の作った料理をテーブルに並べる段になると僕はどうしてもうまくできなかったり型崩れしたほうを自分の皿に盛り分けてしまう。魚だと頭のほうを相手の皿にのせ、自分は尻尾のほうをとる。これはべつに自分を主夫として卑下しているわけではなく、ただ単に相手に少しでも喜んでもらいたいと思う料理人の習性であろうと僕は解釈している。 こうしてみると世間一般で「主婦的」と考えられている属性のうちの多くのものは決して「女性的」ということと同義ではないように僕には思える。つまり女の人が年をとる過程でごく自然に主婦的な属性を身につけていくわけではなく、それはただ単に「主婦」という役割から生じている傾向・性向にすぎないのではないかということである。だから男が主婦の役割を引き受ければ、彼は当然のことながら多かれ少なかれ「主婦的」になっていくはずである。 僕個人の経験からいうと、世の中の男性は一生のうちでせめて半年か一年くらい「主夫」をやってみるべきではないかという気がする。そして短時間なりとも主婦的な傾向を身につけ、主婦的な目で世界を見てみるべきではないかと思う。そうすれば現在社会でまかりとおっている通念の多くのものがいかに不確実な基盤の上に成立しているかというのがよく分かるはずである。 僕もできることならもう一度のんびりと心ゆくまで主夫生活を送ってみたいと思うのだけど、女房がなかなか働きに出てくれないのでそうもいかず困っている。 1週間って、あっという間だったなあ。 ほんと。もう、体、ガタガタで歩こうにも歩けないよ。それにしても、王さんすごいよ。あの喜屋武さんを負かすなんて! いえいえ、あれはまぐれです。ダメモトで、ただ、がむしゃらにぶつかっていっただけで。 喜屋武といっては「猿も木から落ちる」かな。 喜屋武さん、腕のほうは大丈夫ですか。 大丈夫、大丈夫!こんなの、日常茶飯事だから。王さん、次は負けないからね。 ほんと、王君、初めてなのによく頑張った!じゃあ、はい、これ、ぐーっと。 何ですか、これ。 これはね、泡盛。沖縄に来たら、これを飲まずには帰れないよ。さあさあ、最後の日だから、思いっきり無礼講でいこう。 そうですか、じゃあ… 王君、かなりいける口だね。 そりゃそうですよ。王さんは中国の超寒いところの出身ですから。 マイクさん、比嘉先生は師範ですよ。そんなことしたら、 いいんだよ。今日は無礼講なんだから。 そうですか。それじゃあ、比嘉先生も、まあ一杯。 これが沖縄の音楽か。あれ、この楽器、二胡に似てるなあ。 あれは三線っていうんだ。みんなが踊っているの沖縄の伝統舞踊。さあさあ、みんな一緒に。 僕はいいっすよ。 いいから、いいから。さ、ほらほら。 うーん、難しい!沖縄の音楽っていうと、知念奈美とか、SPEEDY、DA STEP みたいなJ-POPを思い浮べるけど。 東京はそうだろうね。でもそれは最近のものだよ。うちなー文化ってのは、土着の文化に、戦前は中国とやまと、戦後はアメリカの文化が混ざってできたんだよ。だから、ふだんはジーンズはいてJ-POP聴いてる若者も、宴会ともなると、やっぱり、うちなんちゅの血が騒ぐのかな。みんなでこれを踊るんだよ。 沖縄はクロスカルチャーなんですね。 王君、なかなかすじがいいねえ。大したもんだよ。 そうですか。僕のふるさとにも秧歌っていう踊りがあるから、東北人の血が騒いじゃうのかな。 いやあ、うまい、うまい! あれ、大山さん、すっかり酔っ払っちゃったみたいだ。 まったくもう、テーブルの下で寝ちゃってる。大山、おい、起きろ!こんなところで寝たら風邪引くぞ。 もう飲めないよ。 こりゃだめだ。やれやれ…。大山は酒はどうもだめだなあ。 また寝ちゃった。もうちょっと寝かせておきましょうか。喜屋武さんもまだ飲んでるし、マイクさんも踊ってるし、無事に帰れるかなあ。 比嘉先生、いろいろとありがとうございました。今度は東京でお待ちしています。 次はまた勝たせてもらいますからね。じゃ、また。お元気で。 喜屋武さん、お世話になりました。よかったら、また稽古を付けてください。 王さん、今度は手加減しないから、覚悟しておいてくださいよ。それから、おいしい泡盛持って行きますからね。 僕も中国のパイチュウ用意して待ってます。 きっとですからね。じゃ、皆さん、気を付けて。あんしぇー、またやーさい! 「人皆同じ」の思い込み 「人間はどこに行ってもしょせん人間、同じなんだから、分かり合える」。このように考えることほど危険なことはない。なぜなら、実際は「人は皆違う」からであり、また「分かり合う」ためには、お互いに相当な努力が必要であるからだ。「違って当たり前」と考えていれば、異なる考え方や、常識、物事の進め方などに遭遇しても「ああ、そうか、違うんだ」と比較的冷静に捉え「どうすればいいかな」と自分のとるべき行動について考えたり、また相手に自分の考えや、やり方の違いについて説明することも可能になる。 ところが、一度「同じだ」という土台の上に立って相手をみてしまえば、自分のものの見方を相手にあてはめることの間違いにまったく気づかないことになる。すなわち、「わがままだ」「非常識だ」「変な人だ」など、自分の視点で捉えた相手がすべてであり、相手からみた自分や、相手の視点について思いを駆せることの必要性など考えもしないということになってしまう。これは何も国や言語といった文化差についてのみ限った話ではない。親、子ども、夫と妻といった家族や、友人、恋人や職場の人々など自分の周りにいる近しい人々とのコミュニケーションにもあてはまる。「何でこんなに自分のことを分かってくれないんだ」「なんて、無神経」など、相手の行動や言動を責めている自分に気づいたら、ふと一呼吸おいて冷静に考えてみよう。「人皆同じシンドローム」に陥っていないかと。 「間違い探し?」の傾向 「人皆同じ」という思い込みの次に怖いのが、いわゆる「間違い探しゲーム」のように異文化の相手と対峙した場合、目に見える差異ばかり探そうとしたり、また一度大きな差異を見つけるとそれがすべてであるかのように相手が自分とは異なるという点ばかりに意識が集中してしまうことである。例えば、顔が真っ黒に塗って、目の上や唇を白くするといったいわゆる「ガングロ」化粧を施した女性がお隣に引越してきたとしよう。そんな時、女性の特異な外見だけが彼女のすべてを物語るかのように捉え、その上自分と非常に異なる人種だと決め付けて、個人としての彼女を知ろうともしないで「あまり関わらないでおきたい」などと思ってしまう人が多いのではないだろうか。 同じことが実は異文化の相手とのコミュニケーションにもあてはまる。外見上の違いばかりに目を奪われたり、相手の意見や価値観の異なる部分ばかりに着目してしまうと、本当の相手がみえてこないばかりか、相手と自分との共通点にはまったく目がいかなくなる。かくして、相手をよく知ろうともしないで、「異文化の人だから、分からない」となってしまう。前頃の「『人皆同じ』の思い込み」とは逆説的だが、人間同士は共通点のほうが多いのが普通であり、また、お互いに個人として人間同士の付き合いに発展する場合、「共通点を探しあう」ことが肝要となる。 異文化コミュニケーションが難しいのは、この「人皆同じ」という思い込みを排除しつつ「間違い探し」は慎むという離れ業のようなことをしなければならないからだともいえる。この2つのバランスをうまくとりながら、相手と人間関係を構築していくさまは、まるでサーフィンに乗って波乗りをしているようなものだといった研究者もいる。この「異文化コミュニケーション・サーフィン」の上達に、近道はない。実践をどんどん積んで、ぜひ失敗から学んでもらいたいものだ。 意味は言葉にあり? 「言葉の意味は、言葉に付随している。だから、言葉を使って相手に伝えれば、意味は確実に伝わるはず」。このように思ってはいないだろうか。実は、この考えは間違っている。本当は、「意味は人にあり」である。言葉というものは、それ自体に意味があるものではなく、極めて恣意的に音や記号をあてはめているだけであり、その上、人間がいろいろな意味を勝手に付加して使っているからさらに複雑である。例えば、「母」という言葉を例にとって考えてみましょう。多くの人はその言葉を聞いて自分の母をイメージするだろうし、そうなると、当然「母」という言葉に付随しているニュアンスやイメージは人によってまったく異なることになる。 同じ言葉を使っていてもこのように微妙なニュアンスとイメージが異なるのであるから、母語が異なっている場合、さらに話がややこしくなる。例えば、「良い生徒」「良い教師」「良い妻」をgood student,good teacher,good wifeなどと訳したところで、その単語に付随しているイメージや、期待される役割行動をすべて伝えるのは至難の技であろう。なぜから、何を持って「良い」というかはところ変わればもちろん変化するし、その上、「生徒」「教師」「妻」の役割さえ文化が異なると違っていることもありうるからだ。そんなふうに考えると「はっきり言ったから伝わったはず」と簡単には言えないことに気づいたのではないだろうか。「はっきり」の度合や受け取り方さえ違うかもしれないのだから。 皆さん、中国の長春市からいらっしゃった、王宇翔さんです。 こんにちは。 はじめまして。東西大学3年の王宇翔です。今日は皆さんとお話できるのを楽しみにしてまいりました。よろしくお願いします。 じゃあ、これから生徒たちが質問をしますので、お答えいただけますか。 はい。 はい、質問がある人! はい! はい、じゃあ、水木君! 王さんのお名前はどういう字を書くんですか。 はい、中国語ではwangyuxiangと読みます。 中国語って、発音、難しいね。 日本に留学したいと思ったきっかけは何ですか。 そうですね、もともと日本の文化が好きだったんですが、特に若者のポップカルチャーが、どのように作られるのかを知りたかったんです。 王さんは例えばどんな歌手が好きなんですか。 ユミとか、ピースやハロー・ガールズもいいですよね。 詳しい。 ちょっとお聞きしてもいいですか。私たち、国語の時間に「故郷」を読んだんです。 「故郷」ですか。ロンジンにして書ける作品だと思います。日本でも読まれているんですね。ロンジンは今でも中国人に愛されているんですよ。「故郷」は大好きですが、皆さんはどんな感想を持ちましたか。 初めは子ども時代の話で楽しかったけど、難しいなと思いました。 そうですか。印象的な場面はありましたか。 主人公がルントーと遊ぶところです。 あの場面ですか。 王さんが読んで心に残った日本の小説は、どんな作品ですか。 そうですね、まず夏目漱石の「吾輩は猫である」ですね。それから芥川龍之介の「蜜柑」、川端康成の「伊豆の踊り子」もよかったです。皆さんは今までにどんな小説を読みましたか。 宮沢賢治の「注文の多い料理店」や太宰治の「走れメロス」です。 その「走れメロス」ってどんな小説ですか。 この間ブックトークで4班が紹介してたね。 じゃあ、4班の人、王さんに説明してくれますか。 はい。まず登場人物は主人公のメロス、その親友のセリヌンティウス、それからシラクスの王です。妹の結婚式の準備でシラクスの町に来たメロスは、町があまりにもさびしいので、不審に思い、1人のおじいさんをつかまえて話を聞きました。そのおじいさんの話によると、シラクスの王は「人を信じることができない」と言って、自分の子どもや妹、皇后そして自分の家来と、大勢の人を次々に殺しているのでした。 王の噂を聞いたメロスは激怒し、王を殺そうと城を乗り込みますが、逆につかまり、処刑されることになってしまいます。結婚式が間近の妹のことを思ったメロスは、3日後の日没までに戻るから、村での結婚式に出席させてほしいと王と頼みます。そして身代わりに親友のセリヌンティウスを置いて、メロスは村へ急ぎました。 妹の結婚式を済ませたメロスは、セリヌンティウスの待つ城へと急ぎますが、数々の苦難がメロスに襲ってきます。疲れ果てたメロスは一度は、親友を裏切ることも考えました。しかし、友情を貫くために、最後の力を振り絞って城に向かって走り続けました。 日没寸前に城に駆け込んだメロスは、セリヌンティウスと抱き合い、友情確かめ合います。この2人の友情を尊ぶ姿を見て、王は信じることの尊さを知り、改心した、という話です。 なるほど。どうもありがとう。興味深い小説ですね。 王さんがメロスだったら、どうしますか。 そうですね、やっぱり戻るでしょうね。 王さんは親友がいるんですね。 女の人ですか。 科学者と頭 寺田寅彦 寺田寅彦の随筆に「科学者と頭」というのがある。科学者になるには、頭がよくなければならない。これは誰でも考え、描く科学者としての命題であろう。これに対し、寅彦は「科学者は頭が悪くなくてはいけない」と論じている。 頭の悪い人は、よい人が考えて初めからだめと決まっているような試みを一生懸命やる。だめと分かるころには、たいていなんかだめでないものの糸口を取り上げている。 回転が速く、理解力、記憶力、推理力の優れた者が、頭がよいと言われるのだろう。このような能力のすべて優れている者が必ずしも科学者として適しているとは言えないようだ。 頭のよい者は最初から研究のような効率の悪い仕事には関わらないことが多い。ある資質が劣っていても、自然の不思議に感動し、自然に教えを乞う謙虚さを持ち、執拗な努力をする者に自然は扉を開くだろう。現行の入学試験は、科学者を期待して選抜するには適していないように思う。 こころ 夏目漱石 私の「こころ」を造ったのは、漱石であると私はためらわずに言う。 小学校の時から判っても判らなくても、ただただ読み続けてきた。その結果、私の「こころ」は代助のこころであり、先生のこころであり、三四郎のこころであり、一郎や次郎のこころであり、宗助のこころであり、津田のこころとなった。こうした男たちのこころとして夏目漱石が描いたものを、自身の「こころ」の中を見つけ、確認するということが、漱石を読むことと同じになった。 彼らが女を見る心が、私が女を見る心になった。かくして私にとって女とは、美弥子であり、直であり、お米であり、三千代であり、お延であることになった。 誠実に生きようとする意志だけでは、人間は誠実には生きられない。私は自分の「心」に信頼をおけない。先生のように、いつ友を裏切ることになるか、戦きながら生きてきたのである。 サラダ記念日 俵万智 3年前頚椎の病気の検査で10日ほど入院していた時、おもしろい本が出たと、友人が出版されたばかりの本を差し入れてくれた。「サラダ記念日」である。 父が俳人だったので、僕は幼稚園のころ俳句を作ったりして遊んでいた。「万葉」や「古今」にも親しんで育った。外国で日本の家庭に招待されると、冗談半分に和歌めいたものを残してきたりする。だが、近代、現代の和歌はやたらに湿っぽく、年寄りじみているので、好きになれなかった。 検査のための注射の副作用を、俵万智さんの才能が和らげてくれた。「七月六日」に届くよう、サラダサーバーを著者にプレゼントした。こんなミーハーじみたことをしたのは初めてである。いつもは好きになった本を何冊も買って、友人たちに配る癖があるが、なぜかこの本だけは独占したかった。しかし恐れていたことが起こり、「サラダ記念日」は超ベストセラーになってしまった。 満開だ。すごい。 王さんにぜひ見てもらいたいって、美穂からもメールが来てね。 そうだったんですか。北京の桜はまだだろうな。 ここがいいね。 そうね。あなた、シート広げて。 手伝いますよ……はい、よいしょっと。 どうもありがとう。北京でもお花見ってするの? うちの大学のそばの公園が名所なんですよ。 ひっとして京華大学?私京華に留学してたんですよ。 本当に?じゃあ、先輩ですね!これでいいですか。 オーケー。お弁当、お弁当。 まったく、お父さんったら、「花より団子」なんだから。 こら、潤、危ないからやめなさい。この子にも将来京華大に行ってもらいたいんですけど、5年生にもなってこれでしょう。頭が痛いわ。 潤ちゃん、いらっしゃい。 いただきます。 どうぞ、どうぞ。 ジャスミン茶を持ってきたんですが、いかがですか。 いい香り。じゃ、皆でいただきましょう。 この卵焼き、甘くておいしいよ。 日本の卵焼きって甘いんですか。 そうだわ、王さん、潤の中国語の先生になってやってもらえないかしら。 僕が潤ちゃんの先生?まさか。 そうか。王さんがいたじゃないか。実は部下が7月から北京に赴任するんだけど、こちらもなんとか教えてやってくれないか。頼むよ。 そんな。 お父さんったら! やっぱり、春の桜って本当にいいもんだなあ。 信哉君も一緒だとよかったけど、受験勉強じゃしかたないですね。 それがね、まだ部活に夢中で勉強どころじゃないって感じなのよ。もうちょっと真剣になってくれないとねえ。 このままじゃ「サクラチル」だよ。 あなた、縁起でもない。でも、信哉ったら、せっかく年号の覚え方教えてやっても、ぜんぜん覚えようともしてくれないの。 例の「鳴くよ、うぐいす」かい。焦ることはないさ。 信哉君も大変なんですね。さっきの話に戻っちゃうけど、せめて会話だけでも慣らしておきたいの。お時間のある時、潤の中国語の話し相手をしてもらえないかしら。 先輩のお願いだし、それなら喜んでさせていただきます。 よかった!じゃ、ちょっと急だけど、早速、来週あたりからお願いできるかしら。 後半ならたぶん大丈夫だと思いますが。 じゃ、王さん、金曜日にしようか。 潤。王さんにも都合があるのよ。 あいにく、スケジュール帳、うちに置いてきちゃってて。確認してからお電話させていただいてもいいですか。 よろしくお願いします。 ところで、さっきおっしゃってた「うぐいすがなく」って何ですか。 それはね。暗記のための語呂合わせでね。 木村さん、前の子どもにゲームで教える方法について発表してくれたよね。その話、時間がある時、もうちょっと教えてくれない? いいよ。年少者教育のことなら任せといて。 ありがとう。じゃ、明日の吉田先生の授業のあとということで。 オッケー。じゃ、また明日。 よろしく! スポーツの語源はdisportで、運び去るということから、日常生活を離れて気晴らしをする、遊ぶことであり、科学や科学技術とは縁の遠いものであった。今でも、科学技術に囲まれ、様々なストレスに曝されている日常から解き放たれて、心身をリフレッシュすることにスポーツが役立つという点では、この意味が生きているといえるだろう。 しかし、常に新しいことに挑戦することで大脳を発達させ、知恵と文化をより高度なものに発展させてきた人類は、スポーツも単なる気晴らしの遊びとしてだけでなく、身体的な能力の限界への挑戦の場として位置づけて、競技の記録やパフォーマンスを向上させ続けてきた。オリンピック大会や世界選手権を頂点とする「競技スポーツ」がそれである。 その一方で、もう1つのスポーツの在り方として、近年、sports for all という取り組みが世界的に展開されている。競技スポーツばかりでなく、ジョギングやウォーキングなどの競技性のない身体運動もスポーツという言葉で括られて、健康や生きがいのために行うスポーツとして、「生涯スポーツ」とか「健康スポーツ」とも呼ばれている。なぜfor all かというと、科学技術の急速な進展による機械文明にどっぷりと浸かっている現代人には、身体運動の機会が極端に少なくなって、単に体力が低下しているだけでなく、飽食によるエネルギー出納のプラスも加わり、成人病などの健康障害が増加しているという大きな社会問題が起きていて、それを解決する唯一の手段がスポーツだからである。 ところでスポーツとは無縁だった科学が、スポーツと結び付き出したのはここ半世紀ぐらいのことである。オリンピックなどでの国際大会が国威発揚の絶好の場と認識されたことと、身体や運動に関する科学的知見が蓄積されてきて、経験に頼ってきたトレーニングに科学的な分析が加えられるようになったこいとから、当時のソ連、東独などの東欧圏が先行し、それを西欧諸国が追うという形で発展してきた。 はじめは経験を重視するスポーツの現場と、まだ十分な蓄積と持っていなかった科学との間には、お互いの理解不足もあってギャップがみられたが、その後の科学の進展、知識の集積、そして特に測定技術、機器の急速な進歩がこのギャップを急速に埋めつつあり、今では科学のサポートなしには世界の頂点では戦えないというのは常識となっている。それも競技者の競技力発揮に関わる心技体の分析からの支援にとどまらず、打具、シューズ、ウェア、トレーニング機器などの用具、競技場の施設、記録の自動測定や結果の速報などの競技会運営といった様々なところに、最先端の科学技術が広く活用されている。 これらの競技スポーツで蓄えられた科学的知見や技術は、程度の差こそあれ基本的には同じようにスポーツをする生涯スポーツにも広く応用されている。また健康という視点からのスポーツにとってもこの視点は同様に重要であり、相互に働きかけあっているといってよい。 最後に、科学は人類に大きな恩恵をもらたしてくれたが、同時に常に悪魔性が存在していることも忘れてはならないだろう。スポーツでも、ドーピングがそうであり、遺伝子操作などの最新技術も懸念されるものである。スポーツの実践にフェアプレーが求まられるように、スポーツに関わる科学者にもフェアプレーが強く要求されているのである。スポーツも科学も人間の幸福のためにあることを忘れてはならない。 あれ、この辺に交番があったんだけど。迷っちゃったかな。 ちょっと、八百屋のおじさんに聞いてくる。すみません。 ごめんください、マイクです。 マイクさん。どうぞ、どうぞ。 お邪魔します。 ここ、すぐ分かりました? 実はちょっと迷って、八百屋さんで教えてもらいました。 そうでしたか。家内のサチ子です。 はじめまして。こんにちは。 どうぞ。皆さんのことは主人から聞いてます。 サチ子さん。 お母さん、一郎さんの学生さんたちが見えました。 ようこそ。どうぞどうぞ、お入りになって。 これ、つまらないものですが。 これはどうも。君たち、そんな気を遣わなくていいのに。お土産をいただいたよ。 恐れ入ります。あなた、皆さんに座っていただいて。 おばあちゃん、遊ぼうよ。 健太、マイクさんでしょ、こんにちは、お兄さんやお姉さんたちにもご挨拶して。 マイクさん、こんにちは。こんにちは。 こんにちは。 ケンちゃん、おばあちゃんと一緒に向こうで遊ぼうか。 バイバイ。 どうぞ。ごゆっくり。 サチ子さんはどれがいいですか。 皆さんからまずどうぞ。 お父さん、ゲーム機、動かなくなっちゃった。 どれどれ、あれ、ほんとだ。あとで見て上げるから、おばあちゃんのところに行って遊んどいで。 息子さん、おいくつですか。 いくつだっけ?今年で7歳になるんだよね。 僕、お名前は? 清水健太。 一郎、小林先生からお電話ですよ。 ちょっと失礼。 ケンちゃん、そのゲーム機、好き?面白い? バージョンが古いんだ。お兄さん、ゲーム機は? 僕も前は大好きだったよ。ここが動かないんだね。 健太、お母さんがおやつだって。ほら、早く行っといで。 はい。マイクさん、またあとでね。 注意して聞いてると、日本語の呼び方って意外に難しいのね。 この間、前を歩いてる40歳ぐらいの女の人が切符を落としたから、おばさん、落とししましたよって言ったら睨まれちゃった。 子どもを連れていたの? それじゃ「おばさん」はないよ、かわいそうに
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